エルダーの旅は、知的好奇心旺盛なシニアのための学びのプログラムです
エルダー旅倶楽部  
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オスロ空港

 

 

 

 

 

 

 

 


リレハンメルのフォークハイスクール

 

 

 

 

 

 

 

 


ノルウェーのアーケルブリッゲ

 

 

 

 

 

 

 

 


湖と森林の国フィンランド

 

 

 

 

 


パイミオのフォークハイスクール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


チャップマン

 


「エルダーの旅」の原点を語る

米国人エルダーとめぐった北欧3週間


特定非営利活動法人エルダー旅倶楽部  理事長 大社 充


私が「学びと冒険の旅」をみなさまにご提供するきっかけとなったのは、今からおよそ20年ほど前、米国人シニアに混じって参加した北欧を訪ねる3週間の旅でした。
この旅は、1975年に米国で生まれた「旅」と「学び」を融合させた生涯学習プログラム「エルダーホステル(Elderhostel)」の起源を訪ねる旅でもあり、またその後、20年近くにわたって、学びと冒険のプログラムを生み出し続けていく礎をつくった貴重な学びの旅でもありました。


1987年、春のできごと

1987年春、スーツケースを抱えた私は、落ち着かない気分でニューヨークのJFK空港の待合室に座っていました。生まれてはじめての海外ひとり旅。英語もたいして分からないままアメリカ国内での3週間の研修を終え、今また次の研修先のヨーロッパに旅立とうとしていたのでした。

米Elderhostel inc.の好意で、米国国内のエルダーホステル講座に体験参加し、さらに北欧での講座に米国人グループと同行することを許され、約40名の参加者たちと合流するのを一人空港で待っていたのです。私が特別参加したのは、ノルウェー、フィンランド、スウェーデンを各1週間ずつ計3週間でめぐる「エルダーホステル北欧講座」でした。

エルダーホステル(Elderhostel)とは、1975年、ニューハンプシャー州の5つの大学ではじまった高齢者のための旅と学習を組み合わせた寄宿制の生涯学習プログラムのことです。知的好奇心が旺盛で旅が好きなシニア世代が、夏場に空いている大学寮に泊まって、講義や課外活動などの楽しいコースを受講しながら、キャンパスライフを謳歌することができるという素晴らしい生涯学習のシステムです。
JFKを飛び立ったスカンジナビア航空機は大西洋をこえて一路ノルウェーの首都オスロへ向かいました。オスロ空港着陸の際、窓の外には、まるでお伽の国のような新緑の森が広がっていました。「これが北欧か!」息をのむ美しさでした。

 

ノルウェーのフォーク・ハイスクール
そこでの学びの目的は「人生の価値の探求」


ノルウェーではリリハンメル(のちに冬季オリンピック開催地となった町)という小さな町にあるフォーク・ハイスクール(フォルケ・ホイスコーレ:日本語訳は「国民高等学校」)が私たちの学び舎でした。

フォーク・ハイスクールとは、Elderhostel誕生のヒントとなった寄宿制の成人学校で、19世紀のデンマークに起源をもち、いまも北欧諸国に約 400 のフォーク・ハイスクールが存在し、北欧全体の青年の約1割がこの学校で学んでいるといいます。デンマークの歴史学者であり、詩人、教育者のニコライ.F.S.グルンドヴィは、民主主義社会へ移行していくため、エリート層と一般民衆の間の教育ギャップを埋める必要性を強く訴えました。彼の構想する新しい学校は、書物や一方的な講義方式による学習ではなく、対話や討論を通しての学びを主体とする「生のための学校」でした。まさに、学びつつお互いの経験や知識を語り合う生き生きとした雰囲気はこのエルダーホステルに息づいていたのです。

オリエンテーションでは、リリハンメルにあるこの学校の設立目的「人生の価値を探求すること」について語られました。人生の価値を探求するため、芸術や哲学をはじめ、様々なプログラムを提供する大人の学校があるとは、私にとって大きな驚きでした。


 
現地を歩いて知るノルウェーの姿

1987年当時、日本でも環境問題は叫ばれていましたが、身近に環境汚染を実感することは少なかったように記憶しています。しかしここでは深刻でした。「酸性雨の影響で、近くの池に魚が浮いている」というのです。白い腹を出して池に浮かぶ魚をこの目で見たときは驚きでした。この小さくて美しい田舎町の環境破壊がどんどん進んでいたのです。

ノルウェーの政治経済にはじまり、宗教や教育制度、バイキングの歴史についての講義や、ホームビジット、地元の人びととの交流プログラムなどがありました。英語力に乏しい私は講義の半分も理解できませんでしたが、米国人エルダーの学ぶ姿勢や現地スタッフのプログラムの進め方、さらに仲良くこの旅を楽しもうとグループそのものが成長していく過程など、新鮮な驚きとともに参考になる出来事ばかりでした。

1週間のノルウェー滞在を終え、一行はオスロ空港をあとにフィンランドに向かいました。スカンジナビア航空の機内誌をパラパラめくっていると携帯電話の広告が目にとまりました。今でこそ普及著しい携帯電話ですが、80年代の日本ではまだ見かけない代物。当時、技術大国として貿易黒字を続けていた日本で見かけない携帯電話が北欧では早くも普及し始めていたのです。産業政策に関わる話でしょうが、とにかく雪に埋もれる国情に必需品であることは容易に想像がつき、妙に感心したのを記憶しています。

 

湖と森林の国フィンランド(スオミ)

フィンランドでの滞在地は、首都ヘルシンキから西へ120キロにある町パイミオ。同国が生んだ世界的な建築家アルバー・アールトの出世作となったサナトリウム(結核療養所・現在は総合病院)があることで知られる人口数千人の小さな町です。エルダーの旅ではこうした小さな町を拠点とすることが多いのですが、その理由は、@小さな町ほど人びとの暮らしや社会がよく見える、A自然に囲まれた静かな環境こそ学習に適しており、大都市へは日帰り見学が最適、といった考え方によることをこの旅の経験から学びました。

フィンランドの人たちは自国を「スオミ(湖の国)」とよびます。地図を広げれば人の肺の図柄に見えるほど湖が多く、その数は19万近くにのぼり、国土の70%は森林に覆われています。フィンランドはまさに「湖と森の国」といえるでしょう。

 

ホームシックから救ってくれた人

米国人エルダーに随行する旅も2週間目に入り、私はどうもホームシックにかかったようでした。初めての海外旅行、日本を発ってひと月を過ぎ、まったくといっていいほど日本人にはお目にかからず、日本語からも遠く離れた生活。言葉の壁で微妙なニュアンスが伝わらないもどかしさもあり、ストレスも溜まっていました。そんな私を気にかけ、励ましてくれたのがハワイからこの旅に参加していたフランシスという女性でした。

彼女はいつも明るくユーモアにあふれ、ときに鋭い質問を講師に投げかけて話の輪を広げる実に聡明な女性でした。フィンランド経済についての講義の時間、講師が日本の貿易摩擦に言及した際、「彼らは本当に上手にやるよね」と嘲笑ともとれる発言がありました。フランシスは隣に座っていた私になにやら耳打ちし、講義終了後、私を連れて講師のもとへ。「この若者は日本からフィンランドを学びにきているのだ。それなのに先ほどの発言は彼に失礼ではないか」と毅然とした態度で謝罪を求めて詰め寄ったのでした。こうした彼女の大人の態度に私の心は大きく救われる思いでした。

実はこの話には後日談があります。この北欧の旅の約10年後の1997年、私が日本人グループに同行したフィンランド講座で、偶然にもこのパイミオのフォーク・ハイスクールが学び舎となり、ホームビジットで訪ねたのが、なんとこの講師のお宅だったのでした。

10年前の出来事を語り合い、ともに豊かな時間を過ごすことができました。

 

We have only one country between our countries
(私たちの間にはたったひとつの国しかない)


歴史の授業では、数百年にわたるすさまじい国土の変遷を記した地図がスライドで上映されました。1809年までの650年間、隣国スウェーデンの支配下にあり、19世紀はじめスウェーデンがロシアに敗れるとフィンランドはロシアに割譲されます。ロシア革命(1917年)の翌年に独立を果たしますが、1941年には独ソ戦争に巻き込まれ、以後、西側諸国との関係を築きつつも東西両陣営に等距離を置く外交姿勢を強いられました。そんな国の姿勢を嘲笑的に表現した「フィンランド化」という国際政治の言葉がありますが、強国に囲まれ、常に侵略を繰り返されてきた歴史をもつフィンランドの人たちが、民族の誇りと国を守る道を懸命に模索し続けた歴史に、私は深く感銘を受けました。

ある授業で、ロシア国境の川を隔てた人口数百人の町で、独立記念日に町一番の大通り(わずか数百メートルの砂利道)を、国旗を掲げてみんなでパレードする様子が紹介されました。そして川の向こうのロシア兵に聞こえるような大声で「俺たちは自由だぞ。羨ましいだろ」と叫ぶというのです。洒落っ気も感じはしましたが、戦争体験のない私にとって実にショッキングなシーンでした。

同じフォーク・ハイスクールで合宿研修中だった英語教師のフィンランド人男性が語った次のフレーズがいまも忘れられません。「We have only one country between our countries(私たちの間にはたったひとつの国しかない)」。そして彼は私に「仲良くしよう」と握手を求めてきたのでした。

ベルリンの壁がまだ完全に東西を隔てていた1987年の春のことです。

 

旅の達人たちとの出会いと別れ

この旅では、移動する際、飛行機、バス、船、列車とあらゆる交通機関が利用されました。いまでこそEU統合により国境を越えるのも容易になりましたが、北欧の国境を難なく通過するバス、シリアラインやバイキングラインというバルト海を行き交う大型客船、そしてアジアからの移民たちと語り合った列車の旅などすべてが発見であり、この旅の思い出は尽きません。

多くの仲間たちから「北欧には日本人がたくさんいるね」と声をかけられました。しかしこの旅を通して私は一人の日本人とも出会った記憶がありません。つまり、米国人たちにとって、中国人やベトナム人、フィリピン人などすべてがアジア人(=日本人)だったのでしょう。私には彼らのそういった認識がとてもよく理解できました。なぜなら、こうして北欧三国をじっくり学びながら旅する機会でもないと、フィンランド人、スウェーデン人、ノルウェー人という各国の人たちを判別することすらできなかった自分を認識していたからです。旅も最後の国スウェーデンに入り、ノーベル賞についてや福祉政策などの授業を受け、北欧についてまさに日に日に目が開かれていく思いでした。

最終日にはお別れパーティーが開かれ、それぞれに3週間の旅の思い出を語り合いました。ストックホルム空港から帰国する人と、みんなと別れて旅を続ける人たちがいたのですが、残る人のなかに「車でドイツまで旅するんだ」というご夫婦がいました。「車は?」と聞くと、「米国でボルボ車の購入手続きを済ませているので、いまから受け取りに行く」というのです。「車で旅したあとは船で米国に運ぶけど、案外、安いんだよ」と、唖然とする私にウインクしてみせました。また、「今晩、チャップマンに泊まるから君も行かないか」と誘ってもらったチャップマンとはストックホルム港に浮かぶ帆船を改装した通の間では評判のユースホステル。彼らの旅の情報や技術には本当に驚かされることばかりでした。


およそ20年にもわたって、私が「エルダーの旅」をつくり続けている原点がこの旅にあるのでした。



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